■仕切りとは

買い建玉を転売、売り建玉を買戻しして、売買を終了させること [同意語] 落ち、手仕舞い 為替のナミビアの領域には元々はサン人などが居住していたようであるが、14世紀にはバントゥー族の拡大にともない、バントゥー族が支配するようになっていた。 その後、19世紀に入ると1840年にイギリスがケープ植民地との往来のためにウォルビスベイ一帯の領有を開始したが、その他の地域には支配は及ばなかった。1884年にはドイツがウォルビスベイ以外の地域について、ドイツ人商人が現地首長から購入した土地を足がかりに南西アフリカとして保護領化を宣言した。1910年にはイギリスがウォルビスベイ一帯をドイツに奪われることを防ぐため成立した南アフリカ連邦(1961年から南アフリカ共和国)の一部としている。 第一次世界大戦中の1914年にドイツはウォルビスベイ一帯を占領する。しかし、翌15年には南アフリカ連邦(1961年から南アフリカ共和国)が南西アフリカ全体を再占領した。戦後、国際連盟によって南西アフリカは南アの委任統治領とされた。このとき、ウォルビスベイも南西アフリカの一部とされた。 外貨預金までは南アの委任統治が行われるが、南アは、戦後に国際連盟が解散したのに乗じ、委任統治をさせていた国際連盟がなくなったのだからもはや委任統治も終了している、と主張して国際連合が信託統治領に移行させるとした決議を拒否し、併合を宣言した。しかし、国際的には認められず、国際法上不法占領にあたる、とみなされた。 しかし、南アはこれを無視して実効支配を続け、南ア本国と同様のアパルトヘイトを行った。しかし、国際的な非難・南アへの経済制裁やナミビア国内の独立運動の高まりにより、ついに1990年に独立を達成し、今に至っている。なお、ウォルビスベイ一帯は1977年に南アが自国に併合していたため、1994年に返還されるまで南アが自国領として支配していた。 1884年 ドイツ領南西アフリカ成立(ドイツ植民地帝国)。 1914年 南アフリカ連邦が占領。南アの委任統治領となる。 1946年 南アフリカ、委任統治終了と併合を宣言。 1960年 国連総会、南アの委任統治終了を決議するが、南アの実効支配が継続。 1966年 アパルトヘイト政策が始まる。南西アフリカ人民機構(SWAPO)が武力闘争を開始。 1968年 国連総会、南西アフリカからナミビアと改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく旨を決議。 1973年 国連、SWAPOを承認。 1990年 3月に南アから独立。 1994年 南ア領であった港町ウォルビスベイが返還される。 ナミビアは共和制、大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は1990年3月21日に施行されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相と閣僚は、国民議会議員の中から大統領が任命する。 ナミビアの大統領 IPOで、上院に相当する国民評議会と、下院に相当する国民議会により構成される。国民評議会は定数26議席で、全13州から各2名ずつの州代表が、州議会による間接選挙により選出される。任期は6年。国民議会は定数78議席で、うち72議席は比例代表制に基づき国民が選出し、残りは大統領が任命する。任期は5年。 ナミビアは複数政党制を導入しているが、1990年の独立以来、南西アフリカ人民機構(SWAPO)が一貫して政権を担い続けている。主な野党は民主主義者会議(CD)、民主ターンハーレ同盟(DTA)である。 最高司法機関は最高裁判所である。三審制であり、最高裁の下に高等裁判所、地方裁判所を設置している。 ナミビアの地図ナミビアの海岸線沿いには、世界で最も古いといわれるナミブ砂漠があり、天然の良港ウォルビスベイがある。内陸は高原となっていて、北部にはアフリカ最大の塩湖であるエトーシャ塩湖、北東部には長さ450kmのカプリビ回廊がある。南にはオレンジ川がある。 牧畜や、ダイヤモンド、亜鉛などの鉱業が主。経済的には南アフリカへの依存度が高い。 オバンボ族が約50%、カバンゴ族が9%、ダマラ族が7%、ヘレロ族が7%、その他白人(ドイツ系、オランダ系の子孫であるアフリカーナーなど)が6%などとなっている。 公用語が英語となっているが、日常生活で使う人の割合はあまり高くない。白人(ヨーロッパ系)の60%はアフリカーンス語を話し、30%がドイツ語、残りが英語を話している。それ以外の人々はそれぞれの部族の言葉を主に話している。1990年まではアフリカーンス語、ドイツ語も公用語のひとつだった。 フランスが20世紀までに全土を領有。1922年にフランス領西アフリカの一部に。1958年自治国、1960年8月3日に共和国として独立。1974年4月、陸軍のセイニ・クンチェ参謀長がクーデターで軍事政権「最高軍事評議会」を樹立し、同評議会の議長に就任。憲法は停止され、議会・政党活動も中止。1987年11月にはアリー・セブ率いる軍事クーデターで、クンチェ政権も崩壊した。 の国民投票で新憲法が承認され、12月の選挙でアリー・セブが大統領が選出され、形式的に民政移管。1990年11月に複数政党制を導入。12月に新憲法を国民投票で承認。1993年2月の議会選で6党の連合体「変革勢力同盟」が、軍事政権時代の与党「社会発展国民運動(MNSD)に大差で勝利。3月の大統領選では民主社会会議(CDS)のマハマヌ・ウスマン党首が当選。1995年1月の総選挙では MNSD などの野党連合が勝利し、2月にハマ・アマドゥMNSD書記長が首相就任。4月、自治を求めるトゥアレグ人およびトゥーブー人反政府勢力と和平合意。 1996年1月、軍のクーデターでイブライム・バレ・マイナサラ陸軍参謀長を議長とする「救国委員会」が軍事政権を樹立。7月の大統領選でマイナサラ議長がウスマン前大統領をやぶり当選。12月マイナサラ大統領は救国委員会を解散、アマドゥ・シセ前経済相を首相に任命したが、1997年11月には野党との対立やストライキ問題を解決できないとして解任、イブライム・ハッサン・マヤキ外相を新首相に。 1999年4月、再び軍がクーデターを起こし、大統領警護隊がニアメの空港でマイナサラ大統領を銃殺した。そして警護隊隊長のダオダ・マラム・ワンケ少佐を議長とする軍事政権「国家和解評議会」が実権を掌握。議会を解散し、憲法を停止した。軍事政権による憲法草案の是非を問う国民投票が7月行われ、約90%の支持で承認された。新憲法は大統領と首相の権力分担を規定。10月の大統領選で軍の元幹部で MNSD党員のタンジャ・ママドゥが当選。ママドゥ大統領は12月、MNSD書記長のアマドゥ元首相を首相に任命。 2000年3月、マハマドゥ・イスフ元首相が率いるニジェール民主社会主義党(PNDS)を中心とした野党勢力が「民主勢力連合」(CFD) を結成。6月 MNSD など大統領支持勢力が議会多数派の「民主勢力同盟」(AFD) を結成した。2001年2月、大学への政府補助金50%以上削減に抗議した学生が各地でデモ、警官隊と衝突。政府はニアメ大学を閉鎖。4月マイナサラ大統領銃殺事件の捜査を求める支持者ら数千人が首都でデモ。2002年7月、賃金や待遇に抗議した軍兵士が南東部のディッファで反乱を起こし、ラジオ局を占拠。政府は同月のうちに、ディッファに非常事態宣言を発令した。反乱は8月にはニアメにも拡大したが、政府軍が鎮圧。200人以上の兵士が逮捕された。 ニジェール川のレテ島の帰属問題をめぐり、ベナンと国境紛争を抱える。2000年5月、島に建設中のベナン政府施設をニジェール軍が破壊。6月に双方が会談したが決裂し、アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)などに仲裁を要請。2001年6月、両国は結論を国際司法裁判所(ICJ)の判断にゆだねることで合意。 ニジェールは共和制、半大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は1999年7月18日に制定されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相および閣僚は大統領により任命される。 ニジェールの大統領 ニジェールの首相 立法府は一院制で、正式名称は国民議会。定数は113議席で、議員は国民の直接選挙により選出される。113議席のうち105議席は民族や地域に関係なく政党名簿比例代表制度により、残り8議席は小選挙区制により少数民族から選出される。議員の任期は5年である。5%以上の投票が得られない政党には、議席は配分されない。 ニジェール国民議会 ニジェールは複数政党制が機能しており、中でも中道右派の社会発展国民運動(MNSD)、左派のニジェール民主社会主義党、そして民主社会会議(CDS)の3党が有力である。